旅の輪で広がる、人生の彩り
毎週水曜日更新添乗員や企画担当者が旅行に限らず様々なテーマで、日常のコラムを投稿!
美術は『出会い直し』の連続だ

迷わず探せよ、探せば会えるさ
美術館を歩いていて、ふと「あ、またいた」と足を止めることがある。
それが私にとっての“聖アントニオ”。
正式には「聖アントニオの誘惑」というタイトルの宗教画で、中世から近代まで多くの画家が描いてきました。
砂漠で修行する聖人の前に悪魔や怪物が現れ、彼を惑わせる─そんな宗教的モチーフなのですが、これが描く人によって表現が全く違う。奇怪な怪物をぎっしり詰め込む人もいれば、静かな荒野に小さな影を忍ばせる人もいる。その差を比べるのが、たまらなく面白い。
だから、私はつい探してしまう。美術館に入ると「今日も会えるかな」と、ほとんど癖のように。
同じ題材を、違う人が、違う時代に、違う解釈で描き続ける。
そこに“人間の想像力の幅”がぎゅっと詰まっている気がするのだ。
私にとっては、小さなコレクションを集めるような感覚で、また新しいアントニオに出会えたら嬉しくなる。
もちろん、見つけられなかった日もある。何度歩いてもいくら探しても“聖アントニオ”がいない。
そんな日は、取り残されたような気分になる。でも、もともとこの絵は、信仰と誘惑のあいだで揺れる人間を描いたものだ。
だとすれば、迷いながら探している私も、少しは彼に似ているのかもしれない。そう思うと、今日彼に出会えなかったことも、どこかでまた会うまでの試練のような気がしてくる。
だから今日も、わくわく歩く。アントニオに続く道を、他の絵の誘惑に負けながら。
カラヴァッジョとの再会
カラヴァッジョを最初に見たのはイタリアの旅だった。
美術館や教会で、バロック建築の中に飾られた作品は光と影があまりに劇的で、空間全体を揺らすようだった。そのとき生涯の説明も耳にしたけれど、正直あまり心には残らなかった。「荒れた人生を送った画家」という程度で、強烈な絵と同じくどこか遠い存在だった。
それが変わったのはマルタを訪れた夏の日だ。
うだるような暑さから逃れ、厳かな石造りの教会の中で彼の絵に向き合った。以前と同じような説明を聞いた気がする。でもまだ背中に残る汗を感じながら、彼の生涯を、その土地で耳にした瞬間、なぜか彼の人柄や生き方がぐっと近くに感じられた。逃亡を繰り返し、追いつめられるようにしてこの地にたどり着き、最期を迎えた――その事実が、周囲の空気と重なって、物語ではなく現実として迫ってきたのだ。
それ以来、カラヴァッジョの光と影はただの技法には見えない。彼自身の不安や衝動、そして生の熱が刻み込まれているように思える。
同じ説明を聞いても、どこで、どう受け取るかでこんなにも感じ方が変わる。この『場所と体験が結びつく感覚』は、他の画家でも得たことがある。ゴッホを学生の頃に見たとき。正直「有名だよね」というくらいの印象しかなかった。でも彼の人生や人柄、弟との手紙のやり取りを知り、南仏の空気を実際に吸ったあとに向き合うと、同じひまわりが全く違う響きを持って迫ってきた。そう考えだすと「物語に興味はない」と語るフェルメールの静謐な日常も、モネの光オタクのような執念も、なるほど知るほどに「絵の奥にある人間」を覗き込むような体験になる。
美術の面白さは、作品そのものだけでなく、旅や体験と交わることで何度も“出会い直せる”ことにある。同じ絵を別の土地で、別の年齢で、別の心境で眺めると、そのたびに新しい表情を見せてくれる。
それは単なる鑑賞ではなく、人生のどこかで誰かに再会するような、不思議で豊かな時間だ。

祈りと装飾がごちゃまぜになる建築
旅をしていると、絵画と同じくらい心を揺さぶられるのが建築である。
中でもスペインで出会ったムデハル建築─レコンキスタ後、イスラムの職人がキリスト教建築を手がけたことで生まれた、両文化の要素が混ざり合った様式─にはどうしても惹かれてしまう。
たとえば、コルドバのメスキータ。森のように赤白のアーチの連なるムスリムの祈りの場に、後から付け加えられたカトリックの聖堂が堂々と立っている。
矛盾だらけなのに、その中心に立ち、天から差し込む光を浴びると、不思議な調和を感じてしまう。
そしてサラゴサ。ラ・セオ大聖堂の外壁には、レンガとタイルで組まれた幾何学模様が今も残っていて、街を歩くだけでその美しさに出会える。観光料金も要らず、ただ日常の中にアートの壁がある。それもまたムデハルらしい姿だと感じる。
歴史の証人として、矛盾をはらんだその一瞬が、永遠に残っている。
その佇まいに立ち止まると、ただ「平和」という言葉よりも強いものを感じてしまう。
こうした感覚は、日本の文化にも通じる気がする。神社と寺が同じ敷地にある町並み、和室に洋館を継ぎ足した家屋。外から来たものを排除するのではなく、時に不格好でも共存させてきた柔らかさ。旅をしながらそうした共通点に出会うと、歴史の点と点が自分の中で線になっていく。
美術も建築も歴史も――結局のところ、好きでしか語れない!でもその“好き”を通して見える矛盾や交差こそが、旅を面白くしてくれる。だからこそ、あの建物がただ、残ってくれているだけで十分なのです。そして、そんな『残されたもの』が放つ気配を辿っていると、時に、教科書の記述を飛び越えて、強烈な人間と対面することがある。

ルードヴィヒ二世、歴史の裏道で出会った人
彼は歴史の教科書には出てこなかった。少なくとも私の記憶にはまったく残っていない。
けれどドイツにいると、ルードヴィヒ二世の名前はそこかしこで耳に入ってくる。
「ノイシュヴァンシュタイン城を建てた王」「夢想家」「狂王」。観光案内でも土産物屋でも、彼はすっかり有名人だった。
現地で知るルードヴィヒは、ただの“有名なお城を建てた王”では終わらない。
皇妃エリザベート:シシーとの交流や、ワーグナーへの入れ込み、そして孤独と幻想に満ちた生涯。豪奢な城の壁の奥に、芸術と夢に取り憑かれた一人の人間の姿が浮かんでくる。
そして意外な交差点に、森鴎外が現れる。ドイツ留学中にルードヴィヒの訃報を耳にしたという記録を知ったとき、遠い存在だった王が日本の文学史と同じページに立ち現れたように思えた。シシー、ワーグナー、鴎外─別々に学んできた人々が、旅の中でクロスオーバーしていく。
私は、小説や映画で、最後に異なる短編の登場人物が一堂に会する瞬間が好きだ。
歴史も同じで、点と点が線になり、線が交わって物語が立ち上がることがある。ルードヴィヒは教科書ではほとんど触れられない存在だったのに、ドイツの旅ナカでは誰もが知っている“顔”として現れる。その落差の中で、歴史がただの知識から生きたドラマに変わっていくのを実感する。
だから私は、旅先で彼の名前を耳にするたびに、思わず足を止めてしまう。好きなドラマの再放送が思いがけずはじまったような気持ちで。
庄島歩音の三枚
庄島歩音という画家の絵が好きで、気づけば家に3枚飾られている。
最初に出会ったのは動物の絵で、「これだ」と思ったが、すでに成約済。諦めきれずその後も探しているうちに、別の作品に惹かれて買ってしまい、気づけば3枚。それらの絵は結果的に全部気に入っていて、ちょっとした自分だけの美術館みたいになっている。
最近の庄島は植物を描くことが多いと感じるが、それがまた面白い。彼女の絵に共通する、キャンバスの地を活かした素朴な風合いや、重なり合う色彩の奥行き。冬の朝、霜で白く縁どられた草の冷たい質感とか、春に足元で咲く花の柔らかい光とか。大げさじゃなく、視線を落とせば誰でも出会える景色を、じっと見つめている感じがあるんです。派手さはないけれど、“暮らしの隙間にある自然”がそのまま絵になっていて、部屋にかけると外の景色と呼応してくれる。
この絵を見ていると、世界の静けさも悪くないなと思う。もしかしたら世界って案外そういうもので、探しても見つからないときほど、足元の光がきれいだったりするのかもしれない。
絵の前でそんなことを思うと、“出会い直す”って、きっと特別なことじゃなく、日々の小さな瞬間のことなんだろうな、なんてわかった気になったりする。
最初に欲しかった絵は手に入らなかったけど、今ある3枚はちゃんと好き。それだけで十分幸せだ。
絵って、面白い。不器用でも描き続けた人、頑なに光にこだわった人、延々と同じ風景を追い続けた人。仕事人間でもあり、オタクでもあり、趣味人でもある。
そしてそれを知っていても楽しいし、知らなくても味わえる。
絵の前に立って、勝手に想像して、ただ心が動く。それもまたアートの在り方。
純文学を子どもの頃に読み、大人になってから読むとまるで違う話に見えるように。美術もまた、人生の段階によって別の物語を語りかけてくれる。
だから私は、絵の前で立ち止まる時間が好きなんです。
その一枚が、迷い続ける「今」の自分を映し出す鏡になるから。




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