
丸みと厚みのある形状、ガラス内に閉じ込められた気泡、そして鮮やかな色彩・・・。今や沖縄みやげの代表格として知られる琉球ガラスは、離島を含む沖縄県全域で製造されている。
左から 菓子瓶・ハエ取り器・ランプのホヤ
沖縄県でガラス造りが始まったのは、明治43年(1910年)頃だといわれている。それまでは本土からガラス製品を輸送していたが、途中でガラスが割れてしまうことが多かった。そこで、薩摩の商人が「沖縄硝子製造所」を創設。大阪や長崎からやってきた職人たちが、ランプのホヤ、駄菓子瓶、ハエ取り器、漬物入れ、投薬瓶といった実用品を作っていた。そして、大正時代後期になると、新しいガラス工場も増えて、沖縄のガラス産業は順調に発展していった。
けれども、第二次世界大戦で多くのガラス工場が焼失し、しばらくの間ガラスの製造も中断された。ガラス製造が再開されるようになったのは戦後まもなくの頃だった。当時も戦前と同じような実用品を作っていたが、戦後の物資不足で原料を手に入れることができず、苦肉の策でアメリカ軍の基地で捨てられたコーラやビールの瓶を使用するようになった。しばらくすると、工場には進駐軍の関係者が訪れ、メキシコガラスのカタログを参考にして水さし、コップ、デキャンタを作ってほしいなどと注文するようになった。
一つひとつ手作りされる琉球ガラス
琉球ガラスの製造法には、「宙吹き法」と「型吹き法」がある。「宙吹き法」は約1,300~1,500℃で溶けたガラスを吹き竿でふくらませながら製品の形を作る技法で、一つひとつ形が異なる。また、「型吹き法」は、溶かしたガラスを吹き竿につけ、金属型、木型、石膏型などに差し込み、息を吹き込むことで成形する。いずれの技法も吹き竿で一つひとつ丁寧にふくらませる製法によって、ぽってりとした温もりのある形ができあがっている。
琉球ガラスの泡
素朴な色合いは、戦後から材料としていた廃瓶によるものだ。当時は茶、緑、ラムネ色といった廃瓶が多かったが、現在は調合原料により多彩な色の商品を生み出すことができるようになった。
また、ガラス製品にとって気泡は破損しやすいことから欠点とされ、琉球ガラスの職人たちも泡をなくすことに心血を注いでいた。けれども、デザインとしてあえて泡を活かすという発想に立って製作に取り組んだ結果、沖縄の美しい海の中を思わせる気泡の入ったデザインは人気を集めていった。現在、琉球ガラスの気泡はきめ細かいものから大きなものまでさまざまなものがあり、今では琉球ガラスの特徴の一つとなっている。
昭和47年(1972年)に沖縄がアメリカから返還されると、これを記念して3年後に「沖縄海洋博覧会」が開催された。これをきっかけに、本土から沖縄へ多くの人が訪れ、みやげ物として琉球ガラスも注目されるようになった。そして平成10年(1998年)、琉球ガラスは沖縄県の伝統工芸品に指定された。
琉球ガラス村 RYUKYU COCOON
糸満市に位置する琉球ガラス村は、県下最大のガラス工房を併設したガラスのテーマパークだ。琉球ガラスの歴史や特徴について分かりやすく紹介しているギャラリースペースや、琉球ガラスの販売、オリジナルのグラス作りも体験できる。また、琉球ガラスを使用したフォトスポット、ガラスドーム天井が美しいエントランスホールのほか、2024年12月に新たにオープンしたイマーシブ(没入型)空間『RYUKYU COCOON(琉球コクーン)』では琉球ガラスのアートに包まれる特別な体験を提供している。ガラスと光により沖縄の自然や文化を表現した空間は圧巻。ぜひ足を運び、琉球ガラスの世界を存分に楽しんでみたい。