端島(軍艦島)
端島(軍艦島)

産業革命遺産、軍艦島

にほん再発見の旅
2025年04月15日
カテゴリー
国内旅行
旅行記

鉄筋コンクリートの建物が立ち並び、島全体が岸壁に覆われた島。長崎県長崎市にある端島(はしま)は、その姿がまるで軍艦のようであることから、軍艦島と呼ばれてきた。老朽化した他にはない独特の景観は、数々のテレビドラマや映画、ミュージックビデオなどにも使用され、強烈な印象を与えてきた。昨年秋冬には、端島を舞台にしたテレビドラマが大きな反響を呼んだことも記憶に新しい。

空から見た軍艦島 空から見た軍艦島

もともと無人島であった端島に人が暮らすようになったのは、明治時代に入ってからのことだ。海底に良質な石炭が埋蔵されていることが発見され、長崎の業者が石炭の採掘に着手した。その後、明治23年(1890年)に三菱が買い取り、本格的な採掘を開始。第2第3の竪坑が開かれたことで、石炭の産出量は飛躍的に伸び、それとともに人口も増えていった。

鉄筋コンクリート造のアパート 鉄筋コンクリート造のアパート

もともと端島は自然の岩礁からなる小さな島だったが、段階的に埋め立てを行い、明治末期には、面積は当初の8倍に。すでに現在と同じ大きさの人工島になっていた。けれども増え続ける人口に対して、住居を確保することは難しく、3階建ての木造長屋や5階建てアパートなどを建設。大正5年(1916年)には、日本で初めて鉄筋コンクリート造のアパート「30号棟」が建設されるなど、これまでにない技術をいち早く取り入れて、労働者たちの住環境を整えていった。その後も、次々に鉄筋コンクリート造のアパートが建てられ、その姿が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになった。

当時の買い物の様子 当時の買い物の様子

市場 市場

当時の端島には、日本一高層の小中学校や病院といった公共施設のほか、映画館など娯楽施設もあった。また、会社が経営する「購買会」と個人の商店があり、島外からも商売をしに多くの人が訪れていたため、生活に困ることはなかった。ただ、緑が少なかったことからアパートの屋上で花や野菜を育てたり、子供たちのために海水プールを作ったり、工夫しながら生活をしていたようだ。

理容店 理容店

島の暮らしで困ることといえば、水がないことだった。島には水源となる河川や湖がなかったからだ。しばらくは、石炭を燃料にして作った蒸留水を作っていたが、昭和7年(1932年)に給水船が就航。けれども天候不良などで欠航することもあり、島民は水の使用を厳しく制限され、「水券」と引き換えに毎日限られた水が配給されていた。昭和32年(1957年)には、日本で初めての海底水道が完成し、一気に島民の生活は向上したという。

子供の遊び場 子供の遊び場

テレビのある生活 テレビのある生活

人々は制限のある生活の中で、家族ぐるみで互いに支え合いながら生活をしていた。生活も豊かになっていき、最盛期の1960年には約5,300人もの人々が暮らし、日本一の人口密度だった。けれども、時代の流れとともに主要エネルギーが石炭から石油へと変わり、石炭産業は衰退。昭和49年(1974年)に炭鉱は閉山し、その数か月後には島民たちは端島を離れ、端島は再び無人島になった。

現在の島内 現在の島内

無人化してからの端島は建物の崩壊が進んでいった。2000年代に入り、長崎市に所有権が渡ると、少しずつ公開されるようになり、平成21年(2009年)には、観光客が上陸し指定施設のみ見学できるようになった。
そして、日本の産業化に大きく貢献したとして、平成27年(2015年)には、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 ~製鉄・製鋼、造船、石炭産業~」として登録。今は廃墟となっているが、かつて多くの人が働き、暮らし、活気あふれていた産業遺産を一目見ようと多くの今も多くの人が訪れている。

写真提供=(一社)長崎県観光連盟 協力=(一社)長崎国際観光コンベンション協会 文=磯崎比呂美
このページのトップへ