鞆の浦
鞆の浦

鞆の浦、歴史散歩

にほん再発見の旅
2025年02月28日
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国内旅行
旅行記

穏やかな瀬戸内海を行き交う船。江戸時代の常夜燈や白壁の土蔵、石畳の小径。そして歴史を物語る寺社や町家...岡山県との県境、広島県福山市、沼隈半島の南端に位置する鞆の浦は、昔ながらの町並みを残すのどかな港町だ。

島夕景 島夕景

瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦は、満潮時に豊後水道や紀伊水道から海流が流れ込んで鞆の浦沖でぶつかり、干潮時には鞆の浦沖を境に東西に分かれて流れ出している。船はその潮の流れに乗って入港し、引き潮に乗って出港。瀬戸内海を横断する船は鞆の浦で潮の満ち引きを待っていたことから、古代より鞆の浦は「潮待ちの港」として栄えていた。『万葉集』には、鞆の浦を詠んだ和歌が八首もあり、そのころにはすでに港として利用されていたことが分かる。

平成いろは丸と弁天島 平成いろは丸と弁天島

中世には、足利尊氏が京に上る途中この地で光厳上皇より新田義貞追討の院宣を賜り、織田信長により京を追放された室町幕府15代将軍足利義昭は、天正4年(1576年)に拠点を鞆へと移した(鞆幕府)。そのことから幕末の歴史家である頼山陽によって「足利(室町幕府)は鞆で興り、鞆で滅びた」といわれている。

福禅寺 対潮楼 福禅寺 対潮楼

江戸時代には、福島正則が鞆城を築城するが、一国一城令により廃城。以降は港町として発展し、北前船や九州船だけでなく、朝鮮通信使、琉球使節団、オランダ商館長などが訪れ、活気に満ちていた。
海岸山千手院「福禅寺」の本堂に隣接する「対潮楼」は、朝鮮通信使の迎賓館として、元禄年間(1690年ごろ)に建築された。もてなされた朝鮮通信使の高官は、ここからの眺めを「日東第一形勝(=日本で一番美しい景勝地)」と絶賛。その後、坂本龍馬もこの地を訪れ、歴史の舞台となった。

太田家住宅 太田家住宅

また、明暦元年(1655年)には、大阪からやってきた中村吉兵衛が製造した漢方薬酒「十六味地黄保命酒」が大ヒットし、鞆の浦の経済発展に貢献。太田家住宅は、もともと中村家が江戸時代中期から後期にかけて拡張・増築していたが、明治に入ってから太田家が受け継いだ。主屋や炊事場、保命酒蔵が保存された建物は、平成3年(1991年)に国の重要文化財に指定された。

いろは丸事件談判所跡 いろは丸事件談判所跡

慶応3年(1867年)には、坂本龍馬率いる海援隊が「いろは丸」で海運業務を行っていた際、瀬戸内海で紀州藩の軍艦と衝突(いろは丸事件)。龍馬たちは最も近い大きな港であった鞆に立ち寄り、事故の賠償交渉を行った。
現在、鞆の浦には、「龍馬の隠れ部屋(桝屋清右衛門宅)」、いろは丸事件の談判の場として使われた「御舟宿いろは」、「いろは丸展示館」などがあり、多くの龍馬ファンが訪れている。

古い街並み 古い街並み

明治維新以後は航海技術が発展し、鞆の浦で潮待ちをする必要もなくなったことから、拠点性は低下し、商業港から保命酒や鞆鍛治といった伝統産業の町へと変わっていった。けれども、近代化の波に呑み込まれることはなく、歴史ある街並みはそのまま残り、平成29年(2017年)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

古き良き時代の日本を感じることができ、独特の雰囲気が漂う鞆の浦。タイムスリップしたかのような街並みは、多くの映画やドラマ、アニメの舞台となり、多くの人に感動を与えている。

名物の一夜干し 名物の一夜干し

協力・写真=福山観光コンベンション協会 文=磯崎比呂美