宍道湖 写真提供:松江観光協会
宍道湖 写真提供:松江観光協会

小泉八雲が愛した松江

にほん再発見の旅
2025年11月14日
カテゴリー
国内旅行
旅行記

いま話題の、『怪談』で知られる明治時代の作家・小泉八雲。「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」など、日本各地に残る民話や伝承などに独自の解釈を加えて創作した文学作品は高く評価され、今もなお多くの人々に読み継がれている。

小泉八雲とセツ 写真提供:小泉八雲記念館 小泉八雲とセツ 写真提供:小泉八雲記念館

小泉八雲の英名は、ラフカディオ・ハーンという。嘉永3年(1850年)ギリシャのイオニア諸島・レフカダ島で生まれるが、幼少期に両親が離婚したことで、アイルランドの裕福な大叔母に引き取られた。カトリック系の厳格な学校に入るが、この頃からアニミズムや怪奇文学に興味を示すようになったという。16歳のときに遊戯中の事故で左目を失明。さらに17歳のときに大叔母が破産したため、学校も中退した。移民船に乗ってアメリカに渡ったのは19歳のことだ。シンシナティで印刷屋を営むヘンリー・ワトキンと出逢い、印刷の知識を身に付け、文才があったため22歳で新聞社に採用され、以来文名を得るようになった。

松江城 写真提供:松江観光協会 松江城 写真提供:松江観光協会

日本への関心をもつようになったのは、明治17年(1884年)にニューオーリンズで開催された万国博覧会がきっかけだった。日本館の展示を取材し、日本の政府高官にも会ったという。また、英語版の『古事記』を読んだことも、八雲に大きな影響を与えたと考えられている。そして明治23年(1890年)4月に来日。8月には、松江にある島根県尋常中学校に赴任し英語教師になった。

松江大橋 写真提供:松江観光協会 松江大橋 写真提供:松江観光協会

松江に来た当初、八雲は旅館で生活をしていたが、その後は、宍道湖に近い借家に移り住み、身の回りの世話役として小泉セツを住み込みで雇った。18歳の年の差があったが、すぐに二人は惹かれ合ったという。
その後二人は、八雲の念願かなって松江城北の武家屋敷(現・小泉八雲旧居)に転居し、ここで約5ヶ月の間暮らした。

小泉八雲旧居 写真提供:松江観光協会 小泉八雲旧居 写真提供:松江観光協会

小泉八雲旧居 室内 写真提供:松江観光協会 小泉八雲旧居 室内 写真提供:松江観光協会

八雲は和服を着て、座布団に座り、箸を使って食事をするなど、日本式の生活を送っていたという。また、当初は夫婦間に言葉の壁があったが、独特の日本語である「ヘルン言葉」で会話をすることで、二人は意志疎通を図り、次第に絆を深めていった。
また、幼い頃から物語が好きだったセツは、八雲に怪談や民話を聞かせていた。八雲はその世界にのめり込み、セツは夫のために家族や使用人、近隣の人、旅先で出会った人などに話を聞いて八雲に語り、八雲はセツの考えを取り入れながら、共同作業によって『怪談』などの作品が誕生したのである。

月照寺 写真提供:松江観光協会 月照寺 写真提供:松江観光協会

八雲が松江で暮らしたのは、1年3カ月ほどだったが、八雲は松江を「神々の国の首都」と呼び、古き良き日本の姿が残るここでの暮らしを大変気に入っていたという。松江には、八雲が生まれたレフカダの風景を思わせる宍道湖の夕景をはじめ、怪談の舞台となった松江城(人柱伝説)、城山稲荷神社(夢のお告げ)、月照寺(夜歩く大亀伝説)、普門院(小豆とぎ橋の怪談)など、八雲が作品に著した場所は今も残り、八雲と同じ風景を見ることができる。

堀川遊覧船 写真提供:松江観光協会 堀川遊覧船 写真提供:松江観光協会

明治29年(1896年)、日本国籍を取得し「小泉八雲」と改名。八雲の名は、出雲の枕詞「八雲立つ」にちなみ、セツの養祖父である稲垣万右衛門が名付けたといわれる。松江の後、熊本や神戸、東京へと移り住むが、人情があり、美しい景色があり、そして不思議な話が多く残る、松江での暮らしは八雲の心に残り続けていたといわれている。

小泉八雲記念館 写真提供:松江観光協会 小泉八雲記念館 写真提供:松江観光協会

小泉八雲記念館では、八雲の人生と業績を紹介。遺愛品なども展示している。また、現在はセツの企画展を開催している。(※)

※開催期間:2026年9月6日(日)まで

協力=小泉八雲記念館 文=磯崎比呂美
このページのトップへ