
かつて日本が世界一の生糸輸出国だったことを知っている人はどれくらいいるだろうか。中でも長野県岡谷市は、生糸の一大産地として発展し、外国からは "Silk Okaya" 、国内では「糸都岡谷」と称されていた。
生糸とは、カイコガの幼虫(カイコ)が繭を作る際に口から出した繭糸を何本か揃えた糸のこと。天然繊維の中では唯一の長繊維であるため、毛羽立ちの少ないなめらかな肌触り、独特の光沢の絹織物ができると古くから珍重されてきた。また、繭から糸を取り出し、生糸にすることを製糸という。
諏訪式繰糸機 写真提供=岡谷蚕糸博物館
冬が長く寒冷な岡谷市では、江戸時代中期以降養蚕や綿打などの農閑余業が行われてきた。安政6年(1859年)の横浜開港とともに、岡谷でも上州で行われていた上州式座繰り器を使用して作った生糸をいち早く売り込んだ。明治になると日本にはイタリア式やフランス式の繰糸機が導入されるが、武居代次郎がこれらを参考にコンパクトで性能が良い「諏訪式繰糸機」を独自に開発した。低価格で高品質の生糸を生産できる「諏訪式繰糸機」は全国に広まり、世界一の生糸輸出国へと成長していった。
天竜川沿いに立つ工場 写真提供=岡谷蚕糸博物館
岡谷で製糸業が発展したのには、諏訪湖の影響が大きかった。武居代次郎の中山社は、諏訪湖へ流れ込む河川水を製糸に利用していた。それに習い、当初は河川のある中山間地帯に製糸会社が興っていたが、その後は、より多くの水と水力が得られる天竜川沿いに製糸工場が立ち並んだ。
鶴峯公園にある初代片倉兼太郎の銅像 写真=岡谷市観光協会
世界一の生産量を誇る製糸工場へと発展した片倉財閥が誕生したのもこの頃だ。明治6年(1873年)、片倉市助が庭先で創業。長男の初代片倉兼太郎は経営を拡大し、弟の今井五介は優良蚕品種や多条繰糸機などを実用化。さらにその弟は兼太郎の養嗣子となり、二代目片倉兼太郎を襲名して、世界の製糸王として財閥を形成していった。
工女さんたちが働く様子 写真提供=岡谷蚕糸博物館
岡谷の製糸業を支えたのは、長野県内外から働きに出ていた若い工女さんたちの力が大きい。明治時代は生産効率が優先されていたというが、大正時代になると労働環境も改善。また、工場では、読み・書き・そろばん・華道・茶道・裁縫などを教えるなど、教育にも力を入れ、当時は「嫁にもらうなら岡谷から」などと言われていたという。
旧岡谷市役所庁舎 写真提供=岡谷市
現在、岡谷には、初代片倉兼太郎が低年齢従業員の教育のために設立した私立片倉尋常小学校の跡地「鶴峯公園」(現在はツツジの名所)や明治期に建てられた片倉組の本部事務所「旧片倉組事務所」、昭和初期に製糸家によって寄贈された「旧岡谷市役所庁舎」などが点在。これら製糸の歴史を物語る建物や設備、機械15か所は、経済産業省の「近代化産業遺産」として認定され、当時の様子を今に伝えている。
岡谷蚕糸博物館 -シルクファクトおかや- 写真提供=岡谷市ブランド推進室
中でも、「岡谷蚕糸博物館 -シルクファクトおかや-」は、民間の製糸工場を併設する博物館。フランス式繰糸機や諏訪式繰糸機などの機械や器具など3万点以上もの関連資料を展示。製糸業の歴史、文化を知るだけでなく、実際に糸繰りの作業やカイコを飼育する様子を見学できる。
今もなお、生糸の歴史を伝える岡谷。「近代化産業遺産」を巡ったり、また、これからの季節(毎年5月初旬から中旬)は鶴峯公園のツツジを観賞したり・・・「糸都岡谷」の魅力を存分に楽しみ、未来へとつないでいきたい。