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舟橋 ひとみ
“Good evening, ladies and gentlemen,” 北出氏がユダヤ協会に集まった人々に話し始めた、青いビー玉のような目の男の人、透き通るような色白の女の子、私と同じ黒髪黒目の日本人。前列には駐日イスラエル大使の姿も見えた。ここでは、ガイコクジン、日本人の区別なく皆ただ一人の人間として「1940年のヨーロッパでユダヤ人が受けた壮絶な差別と、正義感溢れる日本人の命のリレー」に静かに耳を傾けていた。黙って、けれど大小様々なその背中は差別への怒りと、正義を貫いた日本人への感謝を雄弁に語りながら。
講演が終わった時すぐに拍手は鳴らなかった、ただ誰もが最後に映し出された「ジャパンツーリストビューロの大迫辰雄氏がユダヤ難民から受け取った感謝の写真のアルバム」を見つめているようだった。しばらくして波の音のような拍手が鳴りだした。その拍手が鳴り止むのと同時にローゼンフェルド会長が静かに語り始め『遥かなる旅路』の一説を日本語で朗読した。
そして「本日、我々はすばらしいゲストをお招きしました。船上でユダヤ難民の為に料理を提供してくださった今村繋さんです。」
と紹介している間に、もうユダヤ教会が震えそうなほど大きな拍手がなり始めた。
ディナーの準備が整ったテーブルに、背筋をしゃんと伸ばして着席していた今村さんが起立して深々と頭を下げた。それでも拍手は鳴り止まなかった。
拍手の音が小さくなった時、駐日イスラエル大使からの挨拶が始まった。ニシムベンシトリット大使は大きな体をくの字に曲げて、もう大使という立場を忘れて今村さんに感謝の気持ちを何度も何度も伝えていたように見えた。
拍手の音が、潮の満ち引きのように大きくなったり、小さくなったりしている間に、テーブルにはディナーのお皿が並び食事が始まった。
・真鯛のカルパッチョ
・サラダ(イスラエル風)
・カラスミパウダー
・ポルチニとキノコのチャウダースープ
・シュニッツエル、スノーフレイクポテトを添えて
・シフォンケーキと紅茶
ユダヤ人にはカシェルという食物規定があるため、コース料理のメニューはユダヤ人向けにアレンジが加えられていて、実際に今村さんが船上で作った料理そのものは『シュニッツエルとスノーフレイクポテト』の一皿だけだったが、船上で命のリレーに参加した料理人達への感謝の想いが込められていた料理は、私のお腹だけでなく心も満たしてくれた。
歓談の間、今村さんの席にはたくさんの人が押し寄せ皆が頭を下げ、手を差し出して感謝の気持ちを伝えている姿が見えていたが、しばらくして今村さんが立ち上がって「本日はこのような晴れの場にお招きいただきまして、大変恐縮いたしております。」と参加者に深々と頭を下げた。そして、当時の料理長テラダマサオさんの的確な指示を誇り、命のビザを発行した杉原千畝氏を讃え、自身はただ日々の仕事に誠実に取り組んだと控えめに付け加え、短い挨拶を締めくくった。
デザートのシフォンケーキを前に、今村さんをじっと見つめ目を潤ませている参加者の姿を眺め、私はユダヤ難民の誰かが語った言葉を思い出していた。「6,000人の命を救った杉原は6,000人から産まれた子供、その子供から産まれた子供をも救った事になる。」さて、命のリレーで助けられた命はどれだけになるのだろうか。
今では命のリレーに参加した人の殆どが他界して、当時まだ19歳だった今村さんも92歳。
東京への旅で私は、時代を経ても感謝の気持ちを持ち続けたユダヤ人達の想いが、命のリレーのアンカーである今村さんに届いた瞬間を見届けて、命のリレーを後生に語り継ぐという新しいリレーのバトンを預かることになった。
東京から夜行バスに飛び乗って、三重に着いたのは翌日の朝だったが、その2時間後電話が鳴り「ありがとうございました。」と言って感慨深げな今村繋さんの声。
私の人生最高の旅は、新しいリレーの最高のスタートになるだろう。
第二次世界大戦の当時、ナチスドイツの迫害を逃れた多くのユダヤ人は、外交官杉原千畝のビザを手に、遠く極東の地までたどり着いた。最後にそのリレーのバトンを受けた「楽洋丸」の船上料理人・今村繁氏の作った料理を再現したい、という筆者の思いつきから始まった交流の輪がどんどんと広がっていく。同じ日本人として、このような形で国際親善に貢献した人がいることを改めて誇りに感じ、こうしたきっかけをつくった筆者の行動力に敬意を表したい。
※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。