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ライブ 旅のコラム

ライブデスク・プランニングマネージャー山本直幸が旅のコラムをお届けします。

意外な性格が読み取れる銅像

バッハ像 バッハには2つの有名な立像があります。一つはバッハが生まれた街アイゼナッハに、そしてもう一つはバッハが亡くなった街ライプツィヒ(写真)にあります。

バッハは、もっとも人間的な側面を持つ大作曲家だったといわれています。若いときには短気な性格からよく取っ組み合いの喧嘩をしました。

頑固一徹で妥協を許さない性格から、教会や世俗の権力者ともよく衝突しました。そしてこの銅像の顔からは、いかにも厳格な性格のイメージが伝わりますが、反面、服装に目を向けてみると、バッハの意外な性格が読みとれます。

ベストのボタンがはずれていることに気づきますが、バッハは、身なりには無頓着で、少しだらしない性格の持ち主だったようです。

1685年、アイゼナッハで生まれたバッハは、9歳のときに母を、10歳のときに父を失いました。そしてアイゼナッハを去り、教会オルガニストの兄の世話になります。両親を失った悲しみを克服し、とても熱心に音楽の勉強に励みます。

そんな勤勉な少年バッハを象徴するエピソードがあります。自由に見ることが許されなかった楽譜を、夜にこっそり持ち出し、月明かりで写し取ったといわれています。その後音楽家として自立し、アルンシュタット、ミュールハウゼンの教会オルガニスト、ワイマールの宮廷オルガニスト、ケーテンの宮廷楽長を務めた後、ライプツィヒへ移ります。

ライプツィヒは当時、帝国内で最も繁栄した都市でした。バッハは1723年、ライプツィヒ市の音楽監督兼トーマスカントル(カントルは「聖歌隊指揮者」の意)に採用され、死ぬまでの約28年間を過ごしました。採用に際しては、当時バッハより有名だったテレマン等が就任を断ったため、第3の候補者だったバッハに決まったというエピソードもあります。

バッハほどの人物でも、当時は社会的地位も低く、実は現在のような高い評価を得るようになったのは、19世紀以降のことなのです。バッハを敬愛したベートーヴェンが、「バッハ(Bach=「小川」の意)は小川ではなく、大海(Meer)だ!」と評したという話はあまりにも有名ですが、ライプツィヒが主な活躍の場だったメンデルスゾーンがバッハ再評価のために多大な貢献をしたこともよく知られています。

写真の立像は、バッハが安らかに眠っているトーマス教会の横にありますが、ライプツィヒ時代、服装の乱れなどにも気づかないほど多忙な日々を送っていたバッハの姿を、如実に表わしているのかもしれません。ヨーロッパを旅すると、いたるところで著名人の銅像に出会いますが、銅像も単なる記念撮影の対象として接するのではなく、足のつま先から頭のてっぺんまでじっくり見てみると、その人物の意外な性格が伝わってきて、楽しめるものです。

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