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ライブ 旅のコラム

ライブデスク・プランニングマネージャー山本直幸が旅のコラムをお届けします。

消えた銅像

メンデルスゾーン像 バッハ記念石柱 音楽都市ライプツィヒは、何といってもバッハが1750年に没するまでの28年間過ごし、ヨハネ受難曲、マタイ受難曲、ロ短調ミサ曲などの大作を世に遺すなど、その名を深く刻んだ「バッハ都市」です。 毎年6月にはバッハ音楽祭としては最も長い歴史を誇り、規模も大きな「バッハフェスト」が開催され、特にメイン会場となる聖トーマス教会(バッハの活躍の場で墓所にもなっている)には世界中からバッハ陶酔者が集まり、音楽都市としての賑わいをみせます。2013年生誕200年を迎えるワーグナーは、1813年に生まれています(生家は残っていない)。 1840年にはシューマンがピアニストのクララと結婚し、その後4年間充実した作曲活動と共に幸福な日々を送っています(住居はシューマン記念館として公開されている)。 中世から都市として繁栄を極めたライプツィヒの象徴ともいえる名門ゲヴァントハウス管弦楽団は、市民の力で創立したオーケストラとしては世界最古です。 そのオーケストラの音楽監督を務め、シューマンの交響曲第1番やシューベルトの交響曲第8番などを初演させたのが、もう一人の重要人物メンデルスゾーンです。 音楽都市として脚光を浴びるようになったライプツィヒの高い名声は、バッハに劣らずメンデルスゾーンの存在に依るところが大きいといえるでしょう。 その理由は幾つか挙げられますが、何よりも1841年バッハの死後初めて忘れられていたマタイ受難曲を演奏し、バッハ作品の再評価、復興に計り知れない貢献をしたことです。 26歳の若さで音楽監督に就任したゲヴァントハウス管弦楽団を12年間指揮して、自らの作品も積極的に演奏しましたが、その際それまで曖昧だった指揮者というポストを確立させた功績も大きいでしょう。 また後進の指導のためにドイツで初めての音楽院(後のメンデルスゾーン音楽大学)を設立しことも特筆すべき一例です。
聖トーマス教会メンデルスゾーンのステンドグラス ライプツィヒには、名誉市民の称号も与えられたメンデルスゾーンの功績をたたえ、没後45年の1892年5月26に建立された立派な銅像がありました。その場所は、メンデルスゾーンゆかりのゲヴァントハウス管弦楽団の拠点ホールとして、1884年に新たに建築されたゲヴァントハウスの前です。ところがナチスが台頭し、ユダヤ系のメンデルスゾーンの作品は演奏されなくなり、そして1936年11月9日の夜、濃霧の中、その存在自体が抹殺されたかのように忽然と銅像が消えてしまいました。

ゲヴァントハウスは、1940年消失し、東独時代の1981年に新たに近代的なホールとして生まれ変わり、10月8日にベートーヴェンの「第九」で再オープンしました。その際「消えた銅像」をゲヴァントハウスの前に復活させようという機運も高まりましたが、結局実現しませんでした。70年以上の歳月を経てようやく2008年10月18日、高さ4mの台座の上に3mの立派な銅像が復元されました。場所は、メンデルスゾーンが敬愛したバッハゆかりの聖トーマス教会正面出入口の前です(横の出入口前には有名なバッハ像がある)。実はその場所には、1835年にメンデルスゾーンが演奏会などで集めた寄付金で建立したバッハ記念石柱もあるのです。バッハの眠る聖トーマス教会内には、バッハと並んで綺麗なメンデルスゾーンのステンドグラスも見られるので、教会周辺はライプツィヒで音楽家ゆかりの場所が最も集中したスポットになりました。
ちなみにメンデルスゾーンは、1847年11月3日、38歳の若さで急逝、1845年から移り住んだ最期の家は記念館として公開されています。

※ライブデスクは、メンデルスゾーンやバッハゆかりの音楽都市ライプツィヒを訪れるコースを企画しています。

メンデルスゾーン最期の家 メンデルスゾーン仕事部屋 ゲヴァントハウス

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