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ライブ 旅のコラム

ライブデスク・プランニングマネージャー山本直幸が旅のコラムをお届けします。

「シンボル」の女神像

女神像 かつて冷戦時代、東西分断のシンボルだったベルリンのブランデンブルク門は、今ではドイツ統一のシンボルになりましたが、そもそもプロイセン王国時代の1791年に、18あった市門の最後の門として築かれて以来、首都ベルリンのシンボルとして様々な歴史を刻んできました。
高さ26m、幅65m、奥行き11mという巨大な門で、一見、凱旋門のように見えますが、決して軍隊行進のために築かれたのではありません。1793年、門の上に据えられた古代ローマの4頭立て2輪馬車「カドリガ」に乗っているのは、平和の女神アイレーネで、平和のシンボルという存在だったようです。事実、当時の軍事大国プロイセンの軍は、一度もこの平和の女神像が立つ門を通ったことはありませんでした。
皮肉なことに、プロイセン軍を破ったナポレオン軍が、1806年10月、初めてベルリン入城の際に通っています。そしてナポレオンは、戦利品として平和の女神像をパリへ持ち去ってしまいました。ナポレオン解放戦争後の1814年4月、平和の「シンボル」はパリから帰ってきたのですが、この時、現在見られるような、プロイセンの鷲を頂いた鉄十字と月桂樹の冠を女神に握らせている、勝利の女神ビクトリアへと、つまりプロイセンの勝利のシンボルに変えられてしまいました。さらに1933年、ヒトラーが政権を奪取した後は、ナチスドイツのシンボルへと変貌し、女神から「平和」の文字が完全に消え去ったのです。
ブランデンブルク門 結局、ブランデンブルク門は、ナチスドイツの崩壊を象徴するかのように、第二次世界大戦時に破壊されてしまいます。1956年〜58年、旧東独により完全に復元され、「ドイツ軍国主義」のシンボルであるという理由から、鉄十字が取り除かれました。しかし1961年に旧東独が、「ベルリンの壁」を構築して、東西ベルリンが分断され、ブランデンブルク門の通過を不可能にしたため、以後、壁が崩壊する1989年11月9日まで、「分断のシンボル」や「冷戦のシンボル」と言われるようになります。ちなみに12月22日には、門は完全に開かれ、その後数ヶ月後には、壁は撤去されました。門は、1991年の修復時に、パリから帰った当時の姿に戻り、ドイツ統一の「シンボル」として復活しました。
ところで女神像をパリから持ち帰ったブルヒャー元帥ですが、大きな仕事をしたわりには、あまり知られていないのは意外です。ブルヒャーは、1815年6月18日、天下分け目の大決戦、ワーテルローの戦いで連合軍側を勝利に導いた英雄なのです。ウェリントン指揮下の連合軍が、正面から決戦を挑み苦戦を強いられていた時に、援軍として到着したブルヒャー指揮下のプロイセン軍が、絶妙なタイミングでサイドを割って雪崩れ込んだため、ナポレオン軍が総崩れになったといわれています。実は、ブルヒャーがナポレオンから取り戻したこの女神像が、勝利を導いたのかもしれません。
余談ですが、ベルリンで「最も重い女性」と言われているのが、67mの戦勝記念塔の上から市内を見下ろすように立っている重さ40トンの勝利の女神像です。ブランデンブルク門から西へ真っ直ぐ延びる大通りにあり、あたかも互いの存在を意識しているかのようでもありますが、歴史の重みを感じさせるブランデンブルク門の女神像は今後もベルリンの「シンボル」の座を奪われることはないでしょう。

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