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ライブ 旅のコラム

ライブデスク・プランニングマネージャー山本直幸が旅のコラムをお届けします。

なくなってみれば・・・

ベルリンの壁 「ベルリンの壁」が構築されたのが、1961年8月13日、そして崩壊したのが1989年11月9日です。高さ3.2m、幅1.2m、全長45.1kmの壁が28年間もベルリンを東西に分断していました。東ベルリンからの亡命未遂逮捕者は3206人、亡命失敗による死者は81人、負傷者は117人というデータが残っています。現在のドイツ連邦議事堂の近くにある慰霊碑を見ると、最後犠牲者は、1989年6月、壁崩壊のわずか5ヶ月前です。
ドイツは、1990年10月3日に再統一され、ベルリンは、ドイツ連邦議会で337票対320票の僅差ながら統一ドイツの首都に決定し、名実ともに「ベルリンの壁」は崩壊しました。冷戦時代の象徴的な存在であった「ベルリンの壁」の崩壊は、あまりにも唐突という印象があり、世界中を驚かすような出来事でしたが、当然のようにその伏線はありました。当時、すでに死語になっていた感がありますが、旧ソ連の国家元首ゴルバチョフが推進した「ペレストロイカ」の影響は、東欧諸国にも波及し、民主化の嵐が吹き荒れていました。東独では、ライプツィヒを中心に各地で民主化運動が活発化し、チェコやハンガリーの西独大使館では多くの東独市民が駆け込むというような事態に陥っていました。それでついにハンガリー政府が、オーストリアとの国境を開放したのです。そこにはもう過去のように旧ソ連による軍事介入はないだろうという判断が働いたようです。
壁の跡地の風景 このハンガリーとオーストリア間の国境開放が、まさに大きな転機となりました。東独市民はチェコ・ハンガリー・オーストリア経由で西独へ行くことが可能になり、実質、東独が「壁」を維持している意味がなくなってしまったのです。 「ベルリンの壁」は、その後わずか数ヶ月でベルリンの中心地から姿を消してしまいました。今ではベルリン市議事堂付近、以前ゲシュタポの本部のあった場所にモニュメントとしてわずかに残されているだけです(写真)。
さて、殺風景になった壁の跡地は、ソニーとダイムラー・ベンツがいち早く土地を取得し(超破格値だったとか)、近代的な建物を次から次へと建設し、当時とは風景も一変してしまいました。
ソニー・センター広場の屋根 ベルリン・フィルの拠点ホール、フィルハーモニーは、壁構築の2年後に、壁まで歩いて5分くらいの場所に建てられました。西ベルリン時代は、一番東側に位置し、中心地から随分離れた所にあったのですが、東西統一後の今では、まさにベルリンの中心地に位置することになります。世界最大の再開発地区とまでいわれ、建設用クレーンが林立していたときには、まるでベルリン・フィルの名演奏に合わせてクレーンが踊っているようだと形容されました。
今後はフィルハーモニー周辺には、映画館(すでに日本でもお馴染みの「ベルリン映画祭」のメイン会場がソニー・センターに移転)、美術館、博物館、図書館などが整備され、ベルリンの一大文化地区になります。
歴史の中で何となく暗いイメージでしかなかった「ベルリンの壁」も、なくなってみればその跡地は新生ベルリンの明るいイメージの象徴ともなり、旅行者をより一層惹きつける場所になりました。
ちなみに壁跡地の中心的複合施設ソニー・センターが完成したときには、元ソニー会長の大賀氏がベルリン・フィルを指揮して「第九」を演奏し、落成式典にに花を添えました。

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