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近江の戦国時代には多くの武将が活躍し、様々な合戦やエピソードを生みました。また、古文書などの史料はもとより、
ゆかりの城跡や古戦場など、たくさんの史跡が現存します。 このコーナーでは近江の戦国を、今も残る史料・史跡を紹介しつつ、気分がおもむくまま「つまみ食い」の気分で紹介していきたいと 思います。 大河ドラマ「天地人」と近江
NHK大河ドラマ「天地人」では、上杉景勝・直江兼続の主従が、上洛を果たし、豊臣秀吉はじめ、彼に従う大名たちと挨拶を交わす話が、6月後半の部で放映されていました。 そこでは、石田三成も度々登場し、景勝や兼続に、秀吉と上手に「つきあう」ための指南を 行っていましたね。 この景勝・兼続の上洛については、「天正十四年上洛日帳」という記録が山形県米沢市の 上杉博物館に残っており、その経過が現在も手にとるように分かるのです。 この記録は、今月15日までサントリー美術館で行われている特別展「天地人」でも実物が展示されており、 私も少々興奮して拝見してきました。 景勝・兼続主従は、越後の春日山城から京都へ向かうのですから、当然近江を通過します。それでは、どこを通って京都に至ったのでしょうか。 それも、この記録にはちゃんと書いてあるのです。 ドラマでも場面がありましたが、天正14年(1586)5月28日金沢城で前田利家の歓待を受けます。 その後、大聖寺から北庄を通過して、6月4日には敦賀に至り、同地で1日休んだ後、 6月6日に出発、大溝(現在の高島市勝野)を経て、翌日には京都に入っています。 つまり、湖西回りだったのです。 北陸地方から京都へ行く場合、大きく言って琵琶湖の東を通る場合と、西を通る場合があります。その距離からみて、 京都に出る場合は西経路が多く、東国に行く場合は東経路を辿るようです。 ただし、敦賀を通らずに、武生から今庄を経て、栃ノ木峠を越え近江の賤ヶ岳に至る経路をとることも、 京都方面に向かう人には多かったようです。 長浜で生活する私としては、景勝・兼続主従が湖西を通ってしまったのは少々残念ですね。帰りは6月24日に京都を発って、25日には湖西今津で1泊して同じく敦賀回りで帰っています。 これも、残念。帰りぐらい湖東を通って欲しかった。 さて、景勝・兼続主従の京都入りにあっては、ドラマで描かれなかったエピソードが、 この記録に書かれています。 次回はそれを紹介することとしましょう。 |
NHK大河ドラマ「天地人」では、上杉景勝・直江兼続の主従が、上洛を果たし、豊臣秀吉はじめ、
景勝・兼続主従は、越後の春日山城から京都へ向かうのですから、当然近江を通過します。
長浜で生活する私としては、景勝・兼続主従が湖西を通ってしまったのは少々残念ですね。