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林芙美子と歩く尾道の旅
藤川 堯子
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 山陽本線下り快速電車の揺れが少しはげしくなった。尾道水道の汀を大きくカーブして、尾道の町が近づいてくる。向かって左手に、尾道水道に架かる瀬戸内しまなみ海道の新尾道大橋が斬新で美しい姿を現した。海は白く輝いている。右手は山並みだった。山腹から山裾にかけておびただしい数の寺々の甍屋根が、平和そうに初夏の光を浴びて光っている。
“海が見えた。海が見える。 五年振りに見る尾道の海はなつかしい”
  まさに、林芙美子が万感迫る思いを放浪記の中に記した場所は、ここなのだ。私の目は芙美子の目になって、車窓に流れる景色に見いっていた。
  はじめて尾道を訪れたのは、何年前だったろうか。たしか、岡山県笠岡市郊外にある特別養護老人ホームに入っている認知症の母に面会しての帰り、尾道まで足をのばした時のことだったと思う。私は特養ホームを訪れる度に言動が変わっていく母に、覚悟はしていたものの落ち込んでいた。特養に入ってからは、母が歩けるうちに、記憶があるうちに、と思って事情が許す限り外泊許可を貰い、なるべくゆっくり東京の我が家で過ごして貰うことにしていた。もう四、五回は母を連れて笠岡、東京間を往復していた。その時も東京に連れて帰るつもりで迎えに行ったものの、私が着く直前にホームの廊下で転んで、顎を何針も縫う怪我をしてしまったそうで外泊許可が下りなかった。
  「なるべくなら、歩かせてあげたいんじゃけど、危なっかしくなってきたからねえ」
  と介護士さんは残念そうに母を車椅子に座らせた。母の顎には大きなガーゼが張られ、母がそれを取ろうとするので、両手にプロテクターのようなミトンがはめられていた。
  「痛かったね。残念だったね」
  介護士さんに遠慮して小声で母に声を掛けると、私のことが判ったのか、可愛らしいえくぼを浮かべてにっこり笑ってくれた。
  「私は死んだも同然の身ですから、気にせんでください」
  時々母は的を得たようなことを言うので、ぎくっとさせられる。
  一人笠岡の旅館に帰って、母に着せて帰るはずだった洋服をたたんでいると無性に悲しくなった。この時、東京へ帰る前に尾道まで足をのばしてみる気になったのだ。八年前のことだった。
  以来、私はすっかり尾道にはまってしまった。次の年もその次の年も、母のところに行く度に尾道に寄って帰った。母の足はかなりおぼつかなくなっていて、怪我してからは東京へも連れて帰れなくなった。ホームでも終日車椅子に座っていることが多かった。
  今回の旅も母への面会が主な目的だったが、最初の日に尾道で一泊する予定を入れていた。今まで度々訪れた尾道だが、いつもツン帰りで笠岡の定宿に泊まっていた。
  見慣れた尾道駅に着くと、まず旅行案内で今夜泊まる宿の手配をする。
  「なるべく古い日本旅館がいいのですが」
  私は林芙美子一家がはじめて尾道に降り立った時泊まったという、駅に近い線路際の旅籠を意識していた。林芙美子―名前はよく知っていたが、八年前初めて尾道を訪れたのがきっかけで代表作『放浪記』を読んだ。読み終わって、作家というより一人の女としての生き様に共感が湧いた。苦境を持ち前の明朗さと度胸の良さで乗り越える、逞しい処世術に惚れ込んだとでも言おうか。胸の内のシコリとか、もやもやを払いのけるほどの清々しさに出会えた。
  「この辺はなあ、女が一人で泊まるのは断られるんじゃ。ホテルならええけどな」
  と言われ、駅に近い水道縁のホテルをとってもらう。
  「部屋は山側と海側とどっちがええかな? 海側は千円高いけど」
  「海側にします」
  私は尾道で行列が出来るというラーメン屋を案内所で教わって、商店街の外れ近くまで足を伸ばす。最近有名になった黒いつゆの尾道ラーメンは、イリボシやカツオ節で出汁を取ったコクのある味わいだった。
  その日は六月二十八日のあじさい忌とあって、駅前の商店街入り口にある芙美子のブロンズ像の前には、あじさいの献花が飾られアコーデオンやフルートの演奏で当時のなつかしい童謡や小学校唱歌が合唱されていた。私もつられて口ずさんでいると、午後からは再現劇や朗読会があるから是非にと誘われる。多分尾道の人の目にも、尾道に芙美子の息遣いを聞きにきたエトランゼと写ったのだろう。
“カチューシャかわ〜いや別れのつらさ せめて淡雪解け〜ぬまに”
  哀調を帯びた大正の流行り歌に見送られ、私は商店街を後にした。カチューシャの歌が流行ったころ「そこのカチューシャ」と工事現場の人夫たちに声を掛けられただけで嬉しく胸が高鳴った、と芙美子は『放浪記』に書いている。踏切を渡り、土堂小学校の坂道をだらだらと登ると、途中にざくろの木が何本か庭の囲いからのぞいている家があった。この家のざくろの木が小学校の行き帰りに強く印象に残っていて、『風琴と魚の町』のモデルになったと言われている。
  林芙美子は昭和二十六年六月二十八日、あじさいの咲く季節に四十八歳の若さでこの世を去った。悶絶の瞬間、この美しくも懐かしい尾道の風景が芙美子のまぶたをよぎったことだろうか。私は東京都新宿区中井にある林芙美子記念館の、書斎に当てられた小暗い納戸の部屋を思い出していた。納戸といっても深い庇、部屋の中から半障子を通して廊下越しに北の小庭が見える様子など、納戸とは思えない趣向が凝らされた部屋である。芙美子はこの部屋が一番落ち着くと言って、書斎として使い、寝室にも当てていたという。おそらくこの部屋で悶絶したのだと思える。
  中井の家の各所の設計には女らしい細やかな心配りが見られる。芙美子は初めての持ち家だけに建築に力を注いだ。忙しいスケジュールをさいて参考書を調べ、設計者や大工を連れて京都の民家を見学に行ったり、材料を見に行ったり、その思い入れは格別だったという。特に風呂や厠や台所に十二分に金を掛けた。長い流転の生活からやっと地に根を張るべく手に入れた新築の家に、芙美子は十年間たらずしか住まわずこの世を去った。

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